中澤系さん「uta0001.txt」という言語について


恐れ多くも、中澤系さんの「3番線快速電車が通過します理解できない人は下がって」という歌に対して、この歌を詠みました。


おそらく短歌玄人の人たちからは「ド平凡な”読み”で”詠み”だな」と笑われるどころか怒られそうな気もするのだけど、わたしはこれを胸を張って現時点で最大条件の最高速の最高な”読み”をして”詠み”をしたと思っています。だので、どんな誰かがどんなことを言おうとそれは曲げる気はない。それくらいの熱をもってこの歌を詠みました。なぜなら中澤系の詠む歌のことが大好きだからです。


中澤系さんの歌集「uta0001.txt」をまだご覧になっていないかたはいらっしゃるでしょうか。いらっしゃるのであれば、どうにかしてご覧になっていただければと思います。


わたしは歌集を手に取る前に、Twitterのbotで何首かにふれて中澤系さんを知りました。そして、すぐに、中澤さんが亡くなられていることも知りました。大変理不尽かつ不謹慎ながら、なんで死んだんだよと、怒りたくなる。この歌集はそういう歌集です。


中澤さんだってもっと詠みたかっただろうとは思いますが、でも、どうなんだろう、本当にこの人は短歌を詠みたかったのだろうかと思わせるような歌集でもあります。いや、詠まざるを得ずに詠み続けていくしかない人だったのではないだろうかとわたしは勝手に夢想しています。人生でこれからお会いすることのできない尊敬する歌人の存在を、歌を通して、想像しています。


風船・黄色に連なる作は、人生の、人類の、生きてゆくそれぞれのさみしさを感じます。

そのくせに「うつくしき生きよ」などと孤独の強さを見せつけ堂々と喉元に突きつける一首が現れる。


わたしは実際、あまり短歌の意図を汲み取ることが得意ではないというか、好きではないのです。汲み取るというよりも考える、ということですね。短歌がありのまま教えてくれる物事が正解だとわたしは思っていてそれをああだのこうだの理屈でこねくり回すのならば短歌なんか読まない。それが必要である歌もあるのは理解した上で、わたしは短歌の楽しみ方の一つである「意図をよむ」が嫌いです。それができないなら短歌を詠む資格がないのなら知ったこっちゃないのでそれでもやり続けます。


というわけなので、この短歌の意図はきっとこうで、とかは、あんまりないです。ただ、こう思ったのだろうなと感じたことをそのまま感想として記載しておきます。


中澤系さんの歌からはとにかくただひたすら孤独とひだまり、ゆうぐれのようなやさしさを感じます。

相容れないもののような気がするのですが、相容れます。さみしさほどやさしいものはないというときが必ずあって、そこをするりと言語にしてしまう。

わたしはTwitterでも言ったのですが、中澤さんの短歌は短歌の形をとった「言語」であると思うのです。彼の独自言語。彼が感じ取った世界がうつしとられた言語。鋭く、そのくせいきなりやわらかくなり、それでも差し込んでくる。

ねじ曲がっているのかと思いきやがっつりとド真ん中に突き刺してくる。


大好きな一首で「ゆうぐれの電車静かにポイントを渡る今からおまえが好きだ」というのがあるのですが、なんなんだよこんなことを言われてしまえばお手上げじゃないか。

ああ、いまから伝えにいくのかなとか、夕暮れの電車内の静謐さであるとか、走る電車の過ぎ去る窓の外の映像まで見える。この一首のストレートさにたくさんのものが詰まっている。お手上げです。


わたしはこんなふうなやさしさを見たことがない。「ゆうぐれの電車」のやさしさと「静かにポイントを渡る今からおまえが好きだ」という切なさ。さみしさ。この短歌を読んだだけで泣けてしまう。


「ぼくたちは永遠に存在を追い越すことができない、それだけだ」であきらめを感じるのにそれでも必死に生死に抗う。生にも死にもすべてに牙を剥き爪を立て咆哮を上げながら時に日の当たる場所で生命の根源への慈しみを見せる。


もうわけがわかりません。それでもひとつだけわかるのはこの人はただひたすらに命を詠んでいたのだというたったそれだけです。


「ビルの上飛び降りかねて見るそらを風船が飛ぶ高処(たかみ)をめざす」という、風船と黄色からなる連作の中で一番響いた短歌がこの歌なんですが、日々の一瞬がどんなふうにうつっていたのか本当に知りたい。


わたしは、中澤系が見ていた世界が見たいのです。短歌を通してみる世界はさみしくてばかみたいにやわらかい。どういう視界がひろがっていたんでしょうか。おしえてください。詠み続けていればいつかは気づけるのでしょうか。


どんなに読んでも読んでも追いつけない速度でこの歌集は進んでいきます。病床で詠まれたものもあるそうで、どこのページを開いてもどんな言葉でも表せない言語が飛び出してくる。


ああ、この世界でこんなものが詠めたら!!などとつよくつよくつよくつよくつよく思わせる中澤系という人物はここにもういないのが皮肉です。


いつかかならずこの歌を超えると思い、そして、超えるものではなく、そっと共にあるものでもあるのだなとふしぎな感触でもって、この歌たちをいつまでもわたしは愛でたいと思い続けるのです。



落下する速度のままの三月は青 渦をなす真鴨は悲し / 中澤系



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